中上健次著インスクリプト版「中上健次集十」を読んで

照る日曇る日第990回

インスクリプト社が総力を挙げて出版してきたこのシリーズもいよいよ大詰めを迎えたが、「野性の火炎樹」と「熱風」を二本柱に収めた本巻には、文字通り中上文学の「火」と「熱」が炎をあて燃え盛っているというても過言ではない。

遼作とも主人公はナカモトの一統の黒い血が入った若者の無謀無意味上京青春燃焼破滅冒険譚であるが、1985年出版の「野性の火炎樹」は主人公の活動がまだ全面展開されない段階で物語が終わっているだけに、いささか欲求不満を覚える。しかしそれが果たされようとした著者最晩年の1992年初頭の「熱風」も、著者の早世によって残念ながら未完に終わった。

両作の主題とは、紀州被差別部落の別称である「路地」の問題を、日本から全世界へ拡大し、「路地から路地への往環」の過程で、新しい世界とその人間関係の構築を目指そうとしたものではないだろうか。

その「熱風」では、南米から高価なエメラルド3個を携えて来日した黒い主人公タケオが、やはり中本の血を引き、「かい人21面相」を名乗る毒味男を頭にする「超過激、超反動」の怪しい一味と知り合って、悪徳資本家や権力者、天皇制に挑もうとするのだが、その行動は反権力闘争といえるような理論的なものではなく、刹那的な盲動と痙攣的な殺人を繰り返しているにすぎない。

文学というよりは漫画的なプロットを、作者は主人公たちに憑依しながらひたすら熱情的に文字にする。すると物語の登場人物がおぞましい存在感を備えて白昼堂々とその怪異な姿を露にする。

定見も理性もない出たとこ勝負の能天気で脳たりんの愚かな馬鹿者が、地上では存在したこともない稀有の聖なる存在のような相貌を湛えて屹立する瞬間があるのだ。

それは職人が泥を捏ねまわし、唾を吹きかけ、ふいごで加熱しているうちに、泥人形が見事な武者人形に変身する魔術に似ていなくもない。

それはまた、小川の面をちろちろ上下している背びれの下に、赤黒白の巨大な錦鯉のうごめきを見出した時の驚きに似ている。

中上文学では、すべての物語は破綻する。しかし物語の登場人物は生き生きと生きているのだ。

中上はいささか早すぎる死を死んだし、読者の我々もまもなく他界するだろうが、彼らの存在は不滅である。

  北朝鮮などはほおっておけばそれでいいそのうち対話を呼び掛けてくる 蝶人