生き証人

 歴史の教科書は「整理・編集された証言集」と言えるでしょう。編集されない証言集は、扱いは難しいし信憑性にも問題はあるかもしれないけれど、「歴史そのものの生き証人」と言えるでしょう。

【ただいま読書中】『巴里籠城日誌 ──維新期日本人が見た欧州』渡正元 著、 横堀惠一 校訂現代語訳、同時代社、2016年、2800円(税別)

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 陸軍兵学校で学ぶためにパリに留学していた著者は、たまたま普仏戦争とパリ包囲(パリ籠城)を経験してしまいました。著者は新聞の引用を交えながら詳しく日記を書き残しています。

 フランス国会で戦争開始が決議された1870年7月15日、日誌にはイタリアとロシアに特使が急遽派遣されたことが書かれ「理由がわからない」「意図がわからない」とあります。戦争を始めてから同盟国を求めるわけで、それは意味不明の行動ですよね、同時に5億フランの戦費借り入れが決定されます。ところが当時のフランスでは、入営を命じられた兵士はどこにいようとまず原隊の所在地に出頭して登録と装備の受け取りをし、それからすぐに命令された赴任地に向かうことになっていました。だからひどい場合にはフランス国内を端から端まで一往復する必要があったのです。当然「混乱」が起きます。さらに命令がころころ変更され、人々は右往左往。

 敗戦の噂でパリの群集は絶望して暴れ、勝利の噂で歓喜して暴れます。パリ当局は、敵であるプロイセンと戦う前にパリの群集をコントロールすることに苦労しています。パリでの情報伝達の主要手段は「張り紙」でした。著者はそういった張り紙を丹念に読み、また、フランスだけではなくて、ロンドンから入手したベルリンの新聞も読んでいます。

 市民は紙幣を金銀に交換しようとしましたが、両替所は早期に閉鎖されてしまいました。そこで人々は政府の銀行に押しかけました。8月12日に著者も両替に出かけましたが、数万人の群衆が銀行を取り巻き、兵隊や巡査が警備に数百名動員されていました。また、金貨への両替はできず、新しく鋳造された5フラン銀貨にだけ交換が可能となっていました。

 仏軍は大敗し、ナポレオン三世は降伏して捕虜に。パリでは共和制が敷かれます。パリ市民が「皇帝憎し」で一致していることに著者は驚きます。先日まで歓呼していた皇帝に対してこの“手のひら返し”は「人心が、粗雑・軽薄・節操がない」ことを表している、と。そして人心がそのようになるのは「文明開化」の結果ではないか、と想像しています。明治維新期の日本人がこのような文明観を持っているのに、私は驚きました。

 共和制の政府は「戦争は皇帝が起こしたもので,共和国政府にはその責任はない。だから領土割譲や賠償金はない」と宣言。いや、それは都合が良すぎる「リクツ」でしょう。戦勝国の機嫌がよほどよければ認めてくれるかもしれませんけれどね。

 プロイセン軍がパリ郊外で目撃されるようになり、パリ籠城が始まります。著者が聞いて回ると、食糧の貯蔵は数箇月分あるから十分、とのことでした。このへんから日記には「数字」が多くなります。税金とかものの値段とか。「遠くの戦争」が「身近な戦争」にかわり、著者は「後世への記録」を意識するようになったのかもしれません。9月18日に籠城が本格的に始まりましたが、21日には牛乳がなくなり、物価は3倍になります。9月24日、共和国政府は気球を一つ打ちあげます。これは外部との連絡のために郵便物を乗せていました。それに対してプロイセン軍も気球を上げて対抗します。9月26日には外からの気球がパリに着陸。これにはパリ宛ての書館が積まれていました。9月28日、肉の値段は4倍に。量は全然足りず、人々は畜殺業者の門前に集まっています(政府は「量は十分」と説明しますが、著者は「政府の屠殺数が正しいとしたら、一日に牛一頭と羊8頭を4000人で分配することになる」と計算しています)。10月6日には内務大臣が伝書鳩6羽とともに気球でパリから脱出、各県に援軍の催促です。

 派手な戦闘はないまま、日が過ぎます。いらだった群集が「責任者は辞めろ」と騒ぎ、政府の信任投票が行われて不信任が否決され、一時事態は収まります。11月11日の日記には、市民が猫を、兵士の駐屯地では犬を食べている、とあります。なお「市内では猫一匹が8フラン(日本の1両8分)」とありますが、これは「(日本の1両2分(または3分)」の誤植でしょう。当時の1両は約5フランですし、「8分」は2両になってしまいますから。パリ周囲の砦での戦闘により死傷者が次々出ます。12月6日(籠城80日)、獣肉は食べ尽くし、輸送用の馬を殺しますがとても足りず、犬・猫・鼠が店で売られます。犬の腿肉一本は8フラン、鼠一匹が1フラン(「袋のネズミ」となったパリ市民がネズミを食っていたわけです)。ガスと石炭が欠乏し、石油を灯火に使う、とあります。当時はまだ石油はあまり人気がなかったようです。穀物が不足し、パンは薄ねずみ色となります。ただし著者は「味は変わらない」と平然としています。ただ、その後少しずつ配給量が減らされたのは、お腹には堪えたのではないでしょうか。外からの情報は主に伝書鳩でもたらされ

ます。その中に、ロシアがトルコと戦おうとしているというものもありました。独軍は対抗策として周囲の森に鷲や鷹を放ちます。

 フランスの大砲や小銃は精巧でしたが、ドイツのもの(特にクルップ砲)はそれを上回っていました。籠城戦でパリはそれを身をもって味わうことになります。こちらからの大砲が届かない距離からクルップ砲ががんがん撃ってくるのですから(軍事目標だけではなくて、病院・学校・個人の住居なども次々破壊されます。1世紀あとの無差別都市爆撃の“原型”とも言えるでしょう)。籠城が100日を越え、市内には厭戦気分と政府に対する不満が充満します。政府は「北部軍がプロイセン軍を打ち破って救援に駆けつける」などと発表しますが、著者は「その根拠は?」と冷静に疑っています。さらに政府発表文の最後に必ずつけられる「仏国万歳、共和国万歳」は「無用の定型文」と切って捨てます。「パリの外国人」は非常に冷静で合理的です。また、声高に政府を非難し民衆を扇動し過激に動く人間は、いざ国政を任されたら何もできない、とも判断しています。

 71年1月、講和条約についての折衝が具体的に行われます。1月末「残りの食糧は10日分」との発表。しかし、休戦協定が結ばれそうだとみて、悪徳業者は隠匿していた物資を「今のうち」と大量に放出したため市内の物価は一挙に1/2〜1/3に。そして「平和」が見えるようになると政争が始まります。著者は「共和派」「ボナパルト派」「オルレアン派」「正統派」の4派閥が大乱闘をしている、と見ています。

 2月10日パンの色が「白」に戻ります。こういう些細な事実で「平和」がわかるんですね。「ハッピーエンドではないが、ともかく戦争は終わったね」と言いたくなる場面ですが、ここで話は「パリ・コミューン」へと急展開、というところで本書は終わります。まったく、どうやったら平和が維持できるんでしょうねえ。